みずぶんがくの世界からすいもんがくの世界へ
水文・水資源学におけるトリックスター的要素


久米 篤 (富山大学 理学部 生物圏環境科学科 助教授)


 私が1988年に最初に入った学会は,日本植物学会という明治から今日まで続く日本の理学の草分けともいうべき学会です。この学会の会員で“水文学”の読み方や,それがどのような学問分野であるかを知っている人はほとんどいないでしょう。当時の私の研究は日本海側の多雪地帯に分布する樹木の適応を生理生態学的に解析することでした。何故雪が1.5m以上積もる場所だけに生える樹木が存在し,何故このような形をしているのか,何故近縁種と互いの分布域で混ざり合わないのか,そんなことを毎日考え,フィールドや実験室で研究を進めていました。植物がある場所に生育している理由を考えるには,その場所の歴史を知る必要があります。本州日本海側の多雪は対馬海流と深い関係があるので,数千〜数十万年レベルでどのように地形や海流の流れが変化し,気候が変化し,それに伴って植物の分布が変化してきたかという地史は,植物の多雪地適応を考える上で重要な背景知識です。そのため,地球科学や気象学,植生史,遺伝などの資料を片っ端から集めて勉強しました。一方,生育地の気象環境を精密に測定するため,開発されたばかりのバッテリー駆動のデータロガーを導入し,センサーを自作し,測定プログラムを組み,野外に何台も設置しました。当時,秋葉原に通って新しいセンサーや電子部品を買い込んでくることは,なかなか進まぬ研究の気晴らしとしては非常に楽しいものでした。


 研究を進める上で当時の主流の考え方は,人の歴史と比較すれば野外の植物の歴史は桁違いに長いので,“自然”の植物を考える場合には人の影響は無視するということでした。つまり,人の影響によって生じるノイズを排除するために,できるだけ自然が残っていそうな“良い環境”を選ぶことが研究を成功させる重要な要素として考えられていたのです。当然,私も慎重に調査地を選んでいたつもりでした。研究の重要な柱の一つは多雪地の新潟県・松代と少雪地の東京都・高尾に生育する樹木の葉の光合成特性の比較解析でした。これら二つの測定地点間では,積雪量に関する条件だけが異なり,後の環境条件の差は無視できるという設定です。無雪期間の気温や湿度はほとんど同じでした。ところが,博士論文も最終段階までこぎつけたとき,ブナ林に囲まれた松代では日中の大気CO2濃度が360ppm以下であったのに対して,都市域に隣接する高尾では400ppm以上と,実に1割以上も違っていることに気がつきました。これでは積雪量かCO2濃度のどちらの違いが葉の生理生態学的特性の違いと関係しているのか単純には区別がつきません。幸い,この問題はうまい具合に解決出来たのですが,以来,人が自然環境に及ぼしている影響を無視して,野外で研究を進めていくことは既に困難になりつつあると認識するようになりました。


 学位取得と同時に,幸運にも広島大学のCREST研究員に採用されました。このプロジェクトの目的は,何故,大気汚染によって樹木,特にアカマツが枯れるのかを解明し,その解決案を提示することでした。リーダは世界的な大気化学の研究者でしたが,樹木のことはほとんど知らない方でした。また,プロジェクト内で植物生理生態学を学んでいた研究者は私一人でした。最初の半年は,お互いの言葉や意図していることが全く通じず,大変な状態でした。プロジェクトをまともに進めていくためには,研究者間の相互理解が不可欠です。私は大気化学を勉強すると同時に,樹木の生理生態の基礎を理解してもらえるよう腐心しました。結局,論文が出始めるようになるにつれて,お互いのコミュニケーションが取れるようになり,プロジェクトの方向性が定まり,チームワークらしきものが形成されるようになりました。異分野間の研究者をまとめるリーダにはある種の才能と経験,そしてお金が必要とされることが体験できました。


 プロジェクトも終盤に近づいてきたころ,どういうわけか九州大学の小川滋教授の研究室から助手ポストへの誘いがあり,好奇心から移ることにしました。私は,ここで始めて“水文学”の正しい読み方を知りました。森林水文学の第一印象は,樹木の植物学的要素をほとんど無視しているにもかかわらず,ブラックボックスとして扱われている樹木から測定されたデータは,理学系の研究者によってはほとんど測られていない自然環境を反映した貴重なものであるということでした。赴任して一年経つころには学生さん達への論文指導を通じて森林水文学の面白さに“はまった”状態になり,その科学的重要性を深く認識するようになりました。


 さて,アカマツの衰退に関しては,大気汚染や病害虫による影響もさることながら,林床管理の停止が何らかの影響を与えている可能性が古くから示唆されていました。小川研究室で江田島の山火事跡地における水文データの解析結果や,樹種タイプによる林内雨と樹幹流の配分パターンの違いを知るうちに,遷移の進行によって増加した林床植生からの蒸発散が林冠のアカマツの光合成蒸散量を減少させていると考えると,広島のアカマツ林で測定したデータをうまく解釈できることに気がつきました。そこで,アカマツの生理的衰退と遷移に伴う水文学的プロセスの変化について論文をまとめたのですが,植物生理学と森林水文学を樹木衰退の機構解析に用いた例は,日本でははじめてだったのではないかと思います。また,森林水文学の手法を利用することで“手付かずの自然”幻想から脱却し,日本人の森林利用の長い歴史を踏まえた森林生態系の評価を行うための最初のステップにたどり着けたと感じました。


 九州では博多大会の運営に参加させていただいたのも良い経験でした。行政,企業,大学関係者が学会開催のために一丸となるというようなことは,理学系の学会では考えられないことです。たまたま査読を担当させていただき改稿について意見した論文が,出版後,学会内で高い評価を受けたことも科学的価値観の共通性という意味で非常に印象的でした。「生物環境物理学の基礎」のような優れた教科書を翻訳できたのも収穫の一つでしょう。


 このような楽しい研究生活を送っていたころ,富山大学の知り合いから気象・水文データの解析協力依頼がありました。そのデータは,立山・黒部ダム上流部では,この40年間に2.5度以上も気温が上昇し,冬季の融雪量も増加しているという衝撃的な事実を示していました。立山は世界でも有数の多雪地帯で,氷河時代から連綿とライチョウやチョウノスケソウ等の北方系動植物群が残存していると同時に,これらの生物の地球上の分布の南限です。そこで,温暖化などの環境変動や,広域大気汚染などの人為的ストレスが,立山の自然にどのような影響を与えているのかを科学的に定量化し,適切な社会活動を進めるための野外環境研究プロジェクトを立ち上げることを決意しました。現在,富山・立山で高山水文・生態学を打ち立てるべく,研究協力体制を整備中です。


 地球環境問題は人間社会から自然環境,地球史から未来予測に至る様々な観点から考えていく必要があります。そのような中で,interdisciplinaryな水文・水資源学会が日本の社会において果たすべき任務は非常に重要であり,学会間・分野間の連携の場として果たしていく役割も期待されていると思います。水文・水資源学会の設立趣旨を読ませていただくにつけ,本学会が益々発展していくことを願わずにはおれません。